いのちの食べかた |
22:54 |
この映画を、わたしはコーヒーを飲みながら観ていた。
どこにでも売っているインスタントコーヒーだ。
そこに対して意味はなく、「眠くなってきたし、飲もう。」だ。
この前入った、とある喫茶店は、お店に入ったらすぐに感じた。
『あぁ。ここは、お店がやりたくってやりたくって仕方がない人が作ったお店だ。コーヒーがすきな人が作ったお店だ。』って。
店内に掲示されているお知らせや、それぞれ異なる食器や、メニュー表、音楽。
そのすべてに想いが込められていて、とても居心地がよかった。
そこのお店のコーヒー豆は、海外へ店長さんが直接赴き、購入しているようだった。
コーヒー豆を栽培した人と撮られたツーショット写真の笑顔は、見ていて気持ちがいいものだった。
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映画は、衝撃そのものだった。
自分が口にしているものが、どこからきたのか、どのようにしてきたのか、全く知らなかった。
まさか、こんなに雑に扱われている食べ物があったなんて。
泣くような映画ではなかったけれど、そのあまりにも雑な命の扱われ方に、泣いてしまった。
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私の高校は、総合学科だった。
自由で、多彩で。
今の自分をつくった、重要な3年間だった。
保育の勉強をしながら、自然や動物が大好きだったわたしは、農業の勉強をかじっていた。笑
実際に自分たちで1から田んぼをつくって、お米をつくったり、畑を耕して野菜をつくった経験は、大きかった。
それまで、どんなに親に
「食べ物をたいせつにしなさい!」と言われても、食べ残しをしていた私は、
“自分でつくって食べる。”
その経験一つで、お米を一粒も残せない人間に気付いたらなっていた。
私が直接したわけではないけれど、
雄ブタの去勢をして泣いた同級生の話や、にわとりを絞めている現場に居合わせて、
その当たり前にある環境で、なんとなく命を頂いている感覚があったというのは、
今思えばとてもたいせつなことだった。
だから、映画の中で何の感情も動いていないような表情で、ブタの去勢をしている人を見て、衝撃だったし、
まだ生きているひよこを投げたりしている映像に涙が出たんだ。
あまりにも、想いがなくて。
あまりにも、無責任で。
あまりにも、一時的で。
あまりにも、消費的。
これが世界のすべてではないけれど。
これが世界の一部だ。
なんで、一時的で、消費的で、無責任なことが嫌なのか。
それはきっと、その先に未来はないからだ。
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金属で固められた工場の中で、命が消されていって。
“殺す”というより、“消される”ような印象を受けた。
その“作業”が終われば、まるでキタナイものを扱ったかのように消毒をして。
映像を見ながら、
何かが違う。 こんなんじゃ嫌だ。って、思ってた。
この直感、この想いは間違っていないって、思うよ。
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よく“食べる命”について話が始まると、
『じゃぁ、野菜はどうなるのさ?!』って論議が始まったりする。
私は、ちゃんと野菜も命の一部だと思います。
そんなふうに思ってる私だけれど、この映画を見たあと、
「肉は控えて、野菜でおいしくご飯を食べよう。」と、思った。
野菜も、動物も
両方とも【命】だ。それに変わりはない。
けれど、映画を見て、私が感じたのは、その命が育つスピードだ。
牛の人工授精や、人工的な出産は、あまりにも自然の、命の育つスピードを無視されすぎていた。
どうしても、野菜などの植物より、動物という命が育つには、時間が必要になる。
だから、時間がかかるほうのものが、食べる機会が少ないというのは、自然の摂理に合っていると思うのだ。
単に、そのことを考えたら、毎日肉を食べるのって、なんか違う気がしてきたのだ。
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長くなったけれど、この機会に、食べ物のこと、命をいただくということ、大量生産・大量消費のこと
いろんな“今”を見つめ直すいいきっかけになる映画だと思ったので、よかったら時間のあるときに見てみてください。
いのちの食べかた

















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